風と草
歴史に生きる存在
2025-06-23
こんにちは、副住職の源さんです。
6月20日に発行した広福寺の機関紙『慈眼』に掲載した文章を以下に載せます。
(少々文章を直しています)
去る4月29日、玄武山普済寺(立川市)の弓場重弘和尚が不慮の事故によりご逝去されました。
67歳でした。あまりに突然の痛ましい出来事で、言葉を失いました。
普済寺は670年余りの歴史を誇る名刹で、多摩地域に18もの末寺を有します。
広福寺もそのうちのひとつで、また曾祖父から四代にわたっては特に親しいお付き合いがあり、最も縁深いお寺です。
重弘和尚は普済寺26世重昌和尚の次男として生まれ、建長僧堂で修行ののち、
普済寺現住職で実兄の27世重典和尚を補佐し、長年にわたり副住職として活躍されておりました。
人付き合いが良く、常に周囲に気を配り、謙虚なお人柄で、中堅・若手和尚のまとめ役でした。
また広福寺住職の宗昭和尚にとっては弟のような、私にとっては「父を慕う優しい叔父さん」という存在で、
幼少期には毎年クリスマスプレゼントをいただいておりました。
そんな重弘和尚とは次の思い出が印象に残っています。
重弘和尚は建長僧堂の世話役をお務めで、私が入門して半年ほど経った頃にお会いすることがありました。
厳しい修行のなか、かわいがってくれていた重弘和尚の顔を見て、私は嬉しくなり、つい笑顔で御挨拶してしまいました。
すると重弘和尚は目も合わせずに一言、「新到(しんとう)らしくないな」と応えるのみでした。
僧堂では、新到と呼ばれる一年目の修行僧は、口をきかず、笑顔を見せず、ただ黙々と目の前のことに打ち込まなければなりません。
しかし、なじみある顔を見て気が緩んだ私は、つい話しかけてしまったのです。
重弘和尚は私がこれから歩むべき道を示すために、あえてあのように応えられたのでしょう。
優しかった重弘和尚が見せた厳しさに、「修行とはそういうものか」と感じたことをよく覚えています。
修行を終えて広福寺に戻ってからも、同じ道を歩む者として、常に厳しく指導していただきました。
物静かな佇まいで、情が深く、達筆で、哀愁を誘う声で読経する重弘和尚は、私の目標でありました。
5月14日、普済寺にて通夜が執り行われ、長年親交のあった宗昭和尚が導師を務め、
漢詩(写真)をもって追悼の意を表しました。
玄武山中、無位の人
(普済寺にいて地位や名誉に囚われなかった無欲の人よ)
悲風一陣、老涙頻りなり
(あなたは忽然と逝ってしまい、悲しい風に吹かれて、老いた私は頻りに涙を流してしまう)
言う莫れ、共に行ずる六十稔
(ともに仏道に励んだ六十年に想いを馳せることはやめておこう)
只管献香、安鎮を祈る
(今はただひたすらに、香を献じて安からんことを祈るのみだ)
そして翌日、普済寺住職の請願を受けて、建長寺より生涯副住職であった重弘和尚に普済寺28世が追贈され、
普済寺住職に列せられた上で、建長寺管長導師のもと、盛大な葬儀が営まれました。
住職とは、数百年の歴史を持つ寺院を担い、歴史に名を残す存在です。
歴史に生きる存在といっても良いでしょう。
歴代住職の名は寺院の歴史にたしかに刻み込まれ、数十年後、数百年後の人々が知るところとなります。
重弘和尚は普済寺住職として普済寺の歴史に生きることとなりました。
普済寺に捧げたその生涯を、歴史の一ページとして後世に伝えることは、もっとも意義ある供養となるでしょう。
皆さまにも旅立たれた大切な人がいらっしゃると思います。
そういった方々に想いを馳せ、次世代に語り継ぐことは、歴史を紡ぐことに他なりません。
その意味において、私たちもまた、歴史に生きる存在といえるでしょう。
人生の幕が下りたのち、重弘和尚がそうであるように、
私という歴史が誰かに良い影響を与えられるように、日々を大切に生きていきたいと思います。
それでは、源さんでした。
